2017-07

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ご案内


こんにちわ、このブログの管理者のエムトです。ようこそ、このページを御覧くださいました。これから聖体教会のご案内をさせて頂きます。 

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(1)通信制エクレシアとは?

現代の社会にあってキリスト教会では、さまざまな事情により日曜日の午前中の礼拝に出席できない信徒が少なくありません。また、対人関係での悩みから組織としての教会には入ってゆけない人々もいます。時代はもはや、「教会の外に救いなし」などという独善的な考え方が通用しない現実を呈しているのです。その場合の「教会」はあくまでも制度的組織としての「教会」を意味していました。今の時代はインターネットの普及などにより、従来のように時間と空間とを共有する形ではなくても、信仰共同体を形成することが可能になっています。
「ヴァーチャル」とはいえネットだからこそ必要最小限度の一致で形成される「エクレシア・コイノニア」に近づける気がします。聖書に記されている「エクレーシア」(=以下、「エクレシア」と表記。ヘブライ語で「(召集された)集会」、「会衆」を意味する「カーハール」のギリシャ語訳。一般用語としては「民会、集会」。聖書用語の和訳としては「教会」以外に「召会」などとも訳される。「~から」を意味する前置詞「エク」と「呼ぶ」を意味する動詞「カレオー」が合成して「エクカレオー」〔呼び出す〕となり、その名詞化された語。)はもっと自由で、信仰の個別性や多様性が活かされる共同体であるはずです。とにかく「エクレシア」の翻訳は英訳にせよ独訳にせよ、そして漢訳やその採用としての邦訳にせよ不適切であったとする意見は少なくないと思います。「エクレシア⇒教会」は問題があります。「エクレシア」は本来、「組織教会」ではありません。(中略)聖書用語として「エクレシア」と対照的な言葉は「キュリアコン」という言葉で、これが英語の「チャーチ(church)」、独語の「キルヘ(kirche)」の語源だそうです。(「主の(もの)」、「主に属する(もの)」を意味する形容詞の中性の主,対格。Ⅰコリ11:20は「主の晩餐」の「主の」。黙示録1:10では与格「キュリアケー」で、「主の日」の「主の」)。宗教改革者のマルティン・ルターは「エクレシア」を「キルヘ」ではなく、共同体を意味する「ゲマインデ(gemeinde」とも訳したそうですが、ルター派教会および福音主義諸教派の教会はその後、どうなったでしょうか・・・。組織では個人は抑え込まれます。共同体では個人が活かされます。


(2)「聖体教会」の名称について

我々は「神認識」ということを「神信仰」と同じく重視します。ところで、聖書が啓示する「神」は「霊」だとか「見えない」だとかいわれますが、それは「物体」ではないということであって、まったく「得体」の知れないものであるということではありません。むしろ「実体」ある存在です。「神の体」とは「神の対象性」ということです。その「体」は、存在論的意味での(物体としての)「体」ではなく、認識論的意味での「対象性」なのです。
いわゆる「対象喪失」といわれる心理問題は、「対人関係」だけではなく「対神関係」においてもあります。ただし前者の場合、おもに近親者との死別や離別が原因である「外的対象喪失」であるのに対して、後者の場合、信者にとって「神」は不死であり共におられるお方なので「神」ご自身との別離ではなく、自身の「神観」が曖昧模糊となり、あるいは崩壊して、「神」の存在が深く感じられなくなるという「内的対象喪失」です。そのおもな原因としては「対人関係」における「外的対象喪失」などの「不条理」体験による信仰の動揺(=神義論的問題)もありますが、内的には汎神論的思想の感化を受けるなど、知性面での動揺も考えられます。特に、現代神学の中には汎神的思想傾向が強く、理屈の上では汎神論と区別されて汎在神論などと言われはしますが、その表現においては、聖書が啓示する人格的存在としての「神」の実体性・対象性が曖昧になる点で変わりありません。

以上のように、「対神関係」自体は確固たる現実として与えられているにもかかわらず、信徒の内面ではこうした「対象喪失」が起きることがあります。これに対処して「神」の存在の実感を取り戻し、活力ある信仰を回復するためには、正常な「神観、神イメージ」がその「対象」として再構成されなければなりません。だからこそ聖書における「神の体」の問題(=聖書神体論)は思弁的な問題ではなく、現場の信徒の信仰生活に関わる実際的な問題なのです。これはあくまでも現場主義の考え方です。

聖書啓示においては、神のことば(ロゴス)が「受肉」した神の御子キリスト・イエスの「復活の体=聖体」が我々にとって「神」の「得体」を知る上で究極の「媒体」です。イエスの歴史的身体は認識論的にみて「神」の「得体」を知るために不可欠の媒体なのです。その意味においてイエスは「神のひとり子」であり「神」と同じ本質の存在であると表現し得るのです。しかしその「同じ本質(=同じ実体)」(ホモウーシオス)というのは本来、存在論的概念なので、これを言わば象徴的というか比喩的というか、非形而上化して捉え直す必要があります。「神」の実体性をキリストの身体性に求める考え方は従来からありますが、それはあくまでも存在論的意味でなされてきました。そこに現場の信仰生活とかけ離れた不毛な神学論争も生じたのです。当教会は認識論的にキリストの聖体の意味を捉え直し、そこに我々が神の実体性を確信する根拠があることを高らかに指し示すことをもって神の栄光をたたえることを使命としており、これが「聖体教会」の名称の主旨です。


(3)「聖体教会」のスタンス(特に「(キリスト=)神」論について)

A..「神の得体」を知るということ
「神は霊」(である)という聖句(ヨハネによる福音書4:24)の文脈を無視した解釈がひとり歩きして、あるいはまた十戒の第二戒の「偶像崇拝禁止」に対する極端な理解により、聖書が示す「神」がまるで「得体」の知れないものであるかのようなイメージを多くの人々に与えてしまっています。それでは信仰は定まりません。信仰はその対象が明らかにされてこそ確立するからです。その点では下記のアデルフィアン派の信条には同感です。
「神が実際人格的存在でなく、幽霊的な者であると考えているのは神を正しく認識していないのです。神は全く正義でありますが、もし彼が形体的存在でないとすれば、人間たちに現れた彼の正義は認識することが出来ないのです。」(~「聖書基本知識」の「1.2 神の人格」)http://www.biblebasicsonline.com/japanese/01/0102.html

ただし、この教派が説いている「神人同形説」には反対です。それこそ「偶像崇拝」につながる危険があります。当方にとって「形体的存在」という言葉は、「神」が元々、視覚的対象としての有形存在であるということではなく、自己対象化する際に、被造物である天使や人間の姿形を取り得る存在であることを意味します。そのような解釈なので、これは「神」を偶像化する考えではありません。旧約聖書でも創世記18章前半部や32章後半部から示唆されることです。

「神霊」の「霊」を神の「本性」と解するなら、「神霊」の「霊」(マタイ3:16、ローマ8:9、Ⅰコリ2:11、Ⅰヨハ4:2他参照。Ⅰコリ2:10の「霊」のように「神の」という属格の修飾を受けない場合も含む)と意味が区別されて然りです。それが聖書に即した考え方です。前者は「神」には「(形)体」が無いという意味ではなく、「(形)体」の有無を超えた「無制約性」であり「絶対性」を意味します。しかしそのままでは「活ける神」ではなく、人間が「神」を認識し得るための「的=対象性」を与えるための自己啓示として「(形)体」をお取りになりました。まさに「神の具体化」です。その究極が御子・ロゴスの「受肉」であり、そこに「神の愛」が現われたのです。後者はその「真理」を認識するために人間に与えられ内在する「聖霊=神の活動する力」です。
さらにルカ24:39の、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」(新改訳)における「霊」の意味も前の二つの意味と区別されなければなりません。原語は同じ「プニューマ」ですが、これは新共同訳で「亡霊」、対訳の川端由喜男訳で「(亡)霊」と訳されているとおり、まさに「肉、物」の対義語としての意味です。

「名は体をあらわす」ということわざもあるとおり、聖書において「神」は、(ラテン文字では)「YHWH」(神聖四文字=テトラグラマトン)の名によって表される「体」をもっておられるのです。YHWHの語源が「HYH(ハーヤー)」の使役態3単男未完「YaHYeH」という説を前提とすれば、その名は「存在せしめる者」という意味になり、その存在自体が確固たる「体」なのだと言えます。そしてその「神の体」を歴史的に具現する人物の名は、「YHWH」は救いという意味を表す「イェホシュア」(=イエス)であり、その「体」ということになります。すなわち「神の体」は人が救いを求める時の「的」なのです。

また、「子は親を映す鏡」とか「子を見れば親がわかる」などというように、新約物語の中で「イエス・キリスト」は、けっして「(父なる)神」と「同一実体」として描かれているわけではありませんが、「神」の人格的対象性を具現した存在として描かれています。そこに、物語る主体である「神」の意図がみてとれます。「イエス・キリスト」は「神の啓示(者)」というより「神関係の啓示(者)」であり、「神関係」において「神」を啓示しているのです。すなわち「親子関係」において「親」を映し出しています。「神」はそのような仕方でご自身を我々に物語っておられます。旧約聖書でも「神の使い」などが「神」の人格的対象性を現しているので、「イエス・キリスト」だけが「唯一・独一」の「神の啓示(者)」というわけではありませんが、その「具体性」において「究極」の「神の啓示(者)」であると言えます。

このように、聖書が示す「神」は「得体が知られる」お方です。その観点から御子の「受肉」、および「(父)神、(子)キリスト、(聖)霊」の聖書的「三・一関係」の展開が観察されます。聖書において「神の体」ということを考える場合、新約物語に証言されたイエス・キリストの体を抜きしては意味をなさず、その「宣教のキリストの体」は歴史上に実在したであろうイエス(=イェホシュア)という一個のユダヤ人男性の身体(肉体)を抜きにしては語り得ないのです。「史的イエスの体」を無視するなら、聖書的神体論は歴史の現実から離れたファンタジーにすぎないことになります。いかに「宗教」といえども、それでは人生の「道」にはなりません。なお、ここで「身体」という言葉を用いておりますが、市川浩氏の「精神としての身体」論のように人間の身体を悪戯に拡張して論じるような説は、当方では参考にしていません。

聖体教会では、まずもってその「聖体」の理解が主流のキリスト教会とは異なります。ヨハネによる福音書6章48~51節などで言われている、キリストの「体」を食するということを、「神認識」と関連させて解釈します(・・・「神を知る」ということが信仰生活における「生命」であると解するから)。従って聖餐式については、存在論的な化体説ではなく、認識論的な象徴説を採用することになります。両者の中間的立場は採りません。さらに、通信制教会の立場としては、同じ時間と空間の中で執行される聖餐の儀式に参加することを信徒の救いの要件とすることは出来ません。この点は一般の組織教会とは異なります。

以上、スタンスの内容については、冒頭にリンクを貼っている姉妹ブログの「聖書の御神体」を参照して下さい。


「神」の「無制約性」、「絶対性」についての参考テキストは以下のとおりです。

「ただ無制約的・絶対的なだけでは、この相対的な我々、この世の相対物に制約されている我々は、どう関わっていいか分かりません。そこで、具体的なこの世の象徴によってその存在が指し示される必要があります。その一つの有効な象徴が十字架による贖いの死という、神の愛と義の両側面を照らし出している象徴なのだということができるでしょう。この無制約性と具体性ということはキリスト教の両輪であって、具体性だけになるとき、先ほど申しましたように、直解主義的な、にっちもさっちもいかない間違った偶像崇拝になってしまいます。あるいは、無制約性だけに飛んでいってしまうとき、それは何か神秘主義的な体験ということだけを重んじ、現実の行為や共同体の形成を軽んずるものになる危険があるでしょう。しかし、無制約的な神理解と具体的な神理解という二つの神理解の緊張関係をもち続ける限りにおいて、キリスト教の神は、科学と戦争によって伝統的な神理解が揺さぶられている現代にあってなお生きているし、むしろそういう時代だからこそますます必要になっているのだということを申したかったわけです。 何事も信じない、疑ったり、しらけたり、せせら笑ったり、いたずらに暴力的になったりする、そういう現代にあって、このような神信仰こそ、心の確かな安らぎと豊かな喜びと力を与えてくれる原点であることを、いま一度ここに確認して結びとしたいと思います。」(関根清三著『倫理の探索 聖書からのアプローチ』〔中公新書〕77~103頁)

ここでのポイントは、「無制約的な神理解」と「具体的な神理解」との区別です。前者は従来、神秘主義で、後者は従来、実体論的あるいは存在論的神学の傾向がありますが、後者を認識論的に捉え直すことが、「具体的なこの世の象徴によってその存在が指し示される必要」に応じる方法であると思います。ただし、関根氏との見解の相違は、当方では「神理解」といっても「キリスト=神」の理解という意味であり、キリスト論の捉え直しということです。「神」については、あくまでも実体論的・存在論的に理解されなければなりません。そうでなければグノーシス思想に近づいてしまいます。これでは前者の神秘主義と相俟って、聖書解釈の多様性を通り越して聖書からの逸脱となってしまいます。

教会も存在論的意味としては「キリストの体」などではないので神聖化することは許されないし、存在論的意味では、「キリストの復活体=聖体」は客観的にはどこにもありません。では、教会が「キリストの体」であるということの認識論的意味とは何なのでしょうか?それはこうです。聖書が示す究極の信仰対象(=主体的主体)である「御父・神」の「体」(=信仰対象としての「的」)を捉えるために必要な「媒体」としての信仰対象(=客体的主体)が「御子・キリスト」の「体」(=復活体=聖体)であり、その「キリストの体」を現代の我々は見たり触れたりすることは出来ないのでそのままでは「神認識」の「媒体」にはなりません。つまり「神」に「体」があることの保証にはならないのです。それが「媒体」となり「保証」となるためには、現実に史的イエスの身体を見て触った弟子たちのその感覚を「御霊(=御父から出て御子に宿る霊)」の働きにより祈りの内に直観として歴史的に継承されなければなりません。その継承の営みを中心とする共同体がキリスト教会であるということです。
ある著名な旧約学者は私への返信メールで、「私は聖霊の第三の次元としての、キリストのからだとしての教会(見える教会と見えない教会を超えた教会)としてのイエス・キリストの歴史的・実存的な存在形態においてのみ、信仰の根拠を見出しています。人格神の根拠もそのこととの関わりでしか語れません。」と語ってくれました。その「イエス・キリストの歴史的・実存的な存在形態」という言葉にも表されているとおり、教会論は存在論的に考えると「見えない教会」などという時空を超えた、まさに形而上学的思弁の茫漠たる領域で展開されることとなり、現場の信徒の日々の信仰生活にどのようなつながりがあるのかは遥としてわからない空話になるわけです。多くの信徒が不在の神学思想など何の意味もありません。

B.教会組織の信条・教義から、現場の共同体の信仰告白へ
基本信条にしても、特にギリシャ教父のような存在論(~形而上学)的思考の強い人々によって作られたものであることに留意し、そのようなものが現代の教会現場で信徒の「信仰告白」として相応しいかどうか、すなわち実際には、内容はよくわからないままお題目のように定式だけ唱える、或はせいぜい自分勝手なわかったかのような解釈で言う、といった現場の現実を踏まえるべきです。

<これは本来、実体論的な論理によって解決などできる類いのものではなかったのだ。それを実体論的な論理によって遂行しようとしたから、「わけが分からない」議論に響くのであろう。この論争は、古代のあの時期にのみ一定程度の意義があったものであり、その議論をそのまま現代にまで持ち込んで、あの時代の言語表現のままに無批判に受け入れろと言われても無理なものである。>(高尾利数著『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕p60)

各信徒が、古代教会時代に作られた基本信条を、自身の信仰告白としてより主体的に受け入れるポジティブな継承へと転換すべきで、そのためには「ホモウーシオス」などの存在論的概念を捉え直して、神論の「三位一体」もキリスト論の「神人二性一人格」も認識論的意味で再解釈する必要があります。そうすれば信徒にとって煩雑で生活からかけ離れているかのように思えた信条も、もっと身近に感じられてきます。すなわち現場の教会は、「御霊の働きにより、御子キリストの体を通して、御父の実体を知る」という簡にして要を得た「信仰告白」で一致できるのです。救拯的信仰は賭けではなく、普通の信念と違って「知」を伴なうもので「信知」といわれるべきものなのです。「信仰」批判の立場には、この「知」の軽視が感じられます。しかしそれはけっして仏教の悟りのようなものではなく、依然として原罪により制約されたものなのです(ガラテヤ4;9)。だから生涯にわたって悔い改めの日々を生きるのです。

キリスト教会である以上、基本信条は継承しますが、伝統的教会が存在論偏重の神学に拠っているのに対して、当教会はこれを認識論的に捉え直す解釈学的スタンスを特徴としています。もちろんその担い手は素人ですが、素人で出来る範囲のことをすることがむしろ、現場に密着した神学的営為となるのです。専門性が高くなればそれに応じて現場から離れる面も出て来ます。上記の認識論的捉え直しは、基本信条におけるキリスト論に集中します。特にニカイア信条の「ホモウーシオス」という存在論的概念は、認識論的に捉え直されることによって聖書的信仰に即したものとなります。端的に言えば、それは歴史のリアリティーを神話のメッセージ性と区別できるからであり、「キリスト・イエスは先在のロゴスが受肉した神のひとり子であり神である」といった命題は存在論的には(史実ではないという意味で)神話の事柄ですが、認識論的には、つまり「神認識」においてはイエス自身が「人の子=メシア」の使命を全うして「父(なる神)」との関係を身をもって現わして生きかつ死なれたということで、末長く「神の子」および「神」と呼ばれ賛美されるべき人物だということです。彼は単なる宗教的偉人とは違って特別に選ばれた人の深い霊性が認められるからです。だから、基本信条ないしは教義の認識論的捉え直しは、歴史性を抑圧することなく伝統的な信仰告白定式を受け継ぐことが出来るということでもあります。
唐突ですが、ここで私が好きな高倉徳太郎氏の言葉を引用しておきます。

「聖書は神に関して我らに教える書ではなく、活ける神そのものに直面せしめ、その実在にまのあたりふれしめる書である。聖書において我らに迫り来る神は絶対他者としての活ける神、我らの罪をさばくことによって、これを赦したもう聖なる父である。聖書は神に関する真理を観照せしめるよりも、むしろ活ける贖いの神そのものを罪ある我らに経験せしめるものである。聖書において真に神を知るとは、罪ゆるされて、神との交わりに入ることにほかならない。かかる意味で聖書は神の言葉である。」(~高倉徳太郎著『福音的基督教』第1講第3節)


(4)まとめ

最後に、聖体教会の方向性を指し示していると啓示の如く感じた言葉を引用して、「ご案内」を閉じたいと思います。
要するに私、管理者のエムトは何を言いたいのか・・・すなわち、この聖体教会は、伝統的キリスト教の路線とは少し違って、現場の教会にタブーを持たないということです。簡単に言えば、信条や教義についての思考停止は排し、疑問はとことん追求してゆける自由な場を目指すということです。それが神から信知の恵みを与えられている我々にとって、タラントを地中に埋めないということの1つの意味だと思うからです。教会によるドグマの神秘化に服従し、思考停止してタラントを地中に埋めることは、ブルトマンの「非神話化論」でいわれる「知性の犠性」を意味します。それが本当に信仰深いことだとは必ずしも言えません。これは「聖なる無知を告白する」(~ヨハネス・G・ヴォス)ということと同義ではありません。上記の認識論的解釈といったことは、従来の信条や教義に関する説明の難解さを、よりわかりやすく、しかも自身の信仰につなげて主体的に受けとめ得る方法なのです。しかしその方法も一つの相対的な見解なので、それを採用する,しないは各人の自由です。おしつけるようなことは致しません。ただ、従来の存在論的信仰でよいなら、この聖体教会を選ぶ意味は通信制という点以外にはないでしょう。個人的には、聖体教会は新しいキリスト教を求める人々の選択肢の一つであればよいと思います。

<少なくとも、イエスを全能の神の「実体」として把握し、そのキリスト論への「信仰」を救いの核心にしてきた従来のキリスト教は根本的に修正されざるを得ない。ニカイア信条的・カルケドン信条的神学の解体である。(中略)「私を通らずして父のもとに至る者はいない」(ヨハネ一四6)という排他的言表が、イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる。こうした思考は、さきに述べたような現代聖書学のもたらすイエス像を最も有効に応用するであろう。>(佐藤研著『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕58~59頁)
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